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手紙

亜李子が闘病中に僕たちの子どもに送ってくれた手紙です

『かーくんへ    11才のおたんじょうびおめでとう!
これから、やりたいこと、やらなくてはいけないこと、いっぱいあると思う。
何かやっていくのは、すごく大変なことだけど、だれでも いっぺんにはできない。
  コツコツとひとつひとつの事をやっていける人が、何かをやりとげられるのです。
そんなのしんどいなぁと思うかもしれないけど、その中に必ず楽しみというプレゼントがあるんだよ。


楽しみをいっぱい見つけられると、そんなにしんどい思いをしなくてもできてしまったりするものなのです。
それに しんどくなったら、その時は休けいするんだよ。
じっとして、息をすって、フーッとはいて。耳をすませてごらん。いろんな人が、いろんなものが、エネルギーをくれるのが わかってくるよ。
そしたら、また、元気に歩き出せばいいんだよ。

これからも自分を大切に、そして、人も大切にしてね。
なんか、うっとうしいなぁと思う人がいても、どうしてそうなってるのかなぁ、と考えられるような、この人もほんとは しんどいのかもしれないと 考えられるような人になってね。

今度いっしょに月見うどん食べようね。

かーくんが月見うどん食べてた時、かーくんの顔がたまごになって、おいしーーっていう笑顔がすごくステキでした。 また、あの顔が見たいな。アリコは あの顔が大好き!!

アリコより』

景山日記  景山さん シネ・ヌーヴォー支配人

9月16日(日)、原稿を書こうと、梅田の事務所で泊まる。夜、8時頃、友人から電話で、ついに有ちゃん、有田亜李子が死んだことを知った。

有ちゃんは、劇団維新派を育て上げた大立て役者。長年、製作を担当し、若いスタッフ、役者の相談役であり、大姉御の存在だった。ヌーヴォにとっても同様であり、まさに拠り所。宣伝やらもろもろ、それも困ったことをすべて受け入れてくれた凄い存在だった。

だから、一緒に飲んだときは、機関銃のように、僕に「こうすべきだった」「どう考えてんねん」と、も猛烈に言葉を発せられた。若いスタッフの代弁者となり、言いにくいことをすべて引き受け、嫌な役回りを彼女が担ってくれた。僕の甘さや問題点を、率直にぶつけてくれる、それでいて爽やかなすごい女だった。ただ、僕も飲んだ勢いで反発する。すると、彼女のボルテージはさらに上がる。猛烈に怒るのだが、その眼は優しい。本当にいい女だった。

彼女は、毎月わずかな、本当に数万円(もちろん、数万円!)で生活していた。よくそれで生活できるというつつましいもの。だから、飲んだりすると、僕が出そうとする。それをよく怒られた。使うときは使い、無駄なお金は使わないという、貧しさとは無縁の、生活的な豊かさを彼女こそ体現していた。すごい女だった。

実は、昨年暮れから喉が痛いといっていたという。しかし、1月にはアメリカに行き、2月末のヌーヴォ株主総会では献身的に支えてくれた。その後、断食療法で直そうとしていたようだ。みんなには、直ってから「ちょっと、大変だったんよ」と言おうと、ただ一人で対処。

しかし、断食で体重が激減。その後、友人が見るにみかねて、無理やり病院に連れて行き、緊急入院。その時は、すでに手遅れだった。

僕が、この手遅れという深刻な事態を聞いたのは、8月中旬。友人にも、病気のことを話さず、ひたすら完治することを信じての結果だった。

すぐさま奥ちゃんと一緒に病院に見舞いに行ったのだが、病室には面会謝絶の札。医者からは、もって1週間と言われているという。ともかく、ひとめ会いたいという僕たちの気持ちが通じたのか、病室に入れていただいたのだが、そこには本当に痩せ果てた彼女がいた。しかし、しっかりとした言葉使い。彼女の精神力はすごい。

その後、医者も驚く生命力だったのだが、それから1カ月、遂に訃報が入った。

実は、彼女が愛した維新派全員がヨーロッパ公演に行く寸前だった。3日後には、先発隊が出発するという段階。お互いに悔いが残る寸前のこと。どこまでも優しい女なんだ!

深夜、事務所に来てくれた田井中君と、二人で有ちゃんを偲んだのだが、なぜこんないい女がこんなにも早く逝ってしまうことに、あまりも悔しくてたまらなかった。

9月18日(火)、夕方7時から有田家ゆかりの宝塚・大林寺で有ちゃん(有田亜李子)のお通夜が行われた。昨日が友引なので、今日になった。

有ちゃんの実家は宝塚なのだ。本当に奇遇である。ここピピアのオープン時には、重たいチラシを、リュック、両手には手提げ袋と、戦後まもなくの買い出しスタイルそのままに、ひたすら歩いて、宣伝活動を行ってくれた。彼女の足で繋がったお店などと、今でもピピアのチラシを置かせていただいている。まさに、僕たちの切り込み隊長でもあった。

夕方、ピピアのたいちゃんと大林寺に着いたら、受付などに維新派の面々が付いていた。その前に松本さん。あいかわらずのぶっきらぼうな様子。松本さんこそ突然の死がショックだったと思われる。そして、いっそう小さくなったかのようなポン友・高岡君。彼こそ深い付き合いだった。

まだまだ暑い夏の名残のこの日、夕暮れ、河のほとりのお寺には涼しい風が吹き込んできた。そして、ヌーヴォからもみんなが到着。お通夜が始まったときは数百人の参列者。焼香が延々と続く長蛇の列。髪の色が年輩の白髪から、若い子らの茶髪、赤、緑などの色とりどり。そして若い女の子が多い。こんなモダンな参列者に感動する。手にはみんなハンカチを堅く握りしめて並んでいる。

あー、やっぱり亜李子だ。こんな多くの人たちがみんな彼女の死を惜しみ集まっている。彼女は、僕も含め、実に多くの人たちの世話をやいてくれた。若い子らの身近で最も信頼がおける相談役だった。友達も数多い。彼女を思う気持ちがひとつになって、実に温かい夜だった。有ちゃんの凄さをあらためて感じるとともに、失った大きさをも思い知った。

通夜が終わってから連れ合いとともに帰ったのだが、維新派の芝居が終わったあとのように、立ち去りがたいたくさんの人たちがお寺に残っていた。おそらく、一晩飲み明かすことだろう

9月19日(水)、有ちゃん(有田亜李子)の葬式が11時から。気温は30度を越す夏日。そして晴天。太陽のような存在だった彼女らしい一日。暑いのだが、湿度が少なく爽やか。これまた彼女のようだと思う。

今日も、数百人の参列者。本当に彼女の人望のものすごさを感じる。東京からスタンス・カンパニーの坂口君の姿。急に思いついて、彼が製作した『蜃気楼劇場』をヌーヴォで上映することを頼み快諾してもらう。維新派の東京公演のドキュメンタリー。彼女の溌剌とした製作ぶりが見事な作品。元気な亜李子をヌーヴォで見ることができる。

葬儀は予定通り進み、そしてまたも長蛇の焼香の列。そして最後のお別れにも、花を捧げようとするたくさんの人たち。有りちゃんは、花に囲まれ、ちょっと小さくなった顔で、そして実にいい顔で眠っていた。

葬儀の間、僕の横にはブレーンセンターの稲田さんがいた。彼もこの葬儀に感激していた。それにしても、人をおくるという、みんなの痛いほどの気持ち、深い悲しみと、感謝の気持ちに満ちあふれていた。今、この文章は、あれから2カ月たった11月末に書いているのだけれども、あの場のなんともいえない雰囲気を思うとき、悲しみ以上の豊かさを感じてしまう。いい葬式だった、というのは不遜である。正直悲しい。しかし、なんかとってもいい時間をプレゼントしてもらったように感じるのだ。やっぱり、すごい女だった。

このあと、焼き場まで行き、彼女の骨を拾う。高岡君は分骨してもらい、大事に持ってかえる。維新派のたくさんの面々、そして晴天。宝塚の山中にある焼き場から青空が、ぽっかり穴の空いた空間のように感じられた。本当に彼女は逝ってしまった。


黒うさぎさん投稿

通夜の客≪さよなら亜李子さん≫

いつも私がお世話になっている、化粧品屋の荒木さんという方の親友で、亜李子さんという人が亡くなりました。

亜李子さんと初めてお会いしたのは、多分4年前。

荒木さんの部屋で、一緒に劇団「維新派」のビデオを見せていただいたのが初めてだったのじゃないかと思います。
この時はじめて、私もこの奇妙キテレツな劇団の存在とその魅力に触れました。
亜李子さんはこの劇団で、今は役を退いて営業とか裏方の仕事全般をやっておられました。

荒木さんの、というよりピロンさん(荒木さんのワイフ。いつもニックネームで呼び合う)の高校時代からの親しい友達ということで、私ともよく気さくに遊んでいただきました。しょっちゅう伊丹に来られるので、一緒にお酒を飲んだりカラオケ歌ったり、おしゃべりに興じすぎて、飲み屋で夜明かししたり。

劇団「維新派」はこのところ毎年秋になると大阪の南港で公演をやります。
私もこの3年続けて見に行きました。
劇そのものもそうですが、劇場の周りの、にぎやかなお祭りのような屋台の雰囲気が大好きでした。

「学園祭のノリですね。オトナの学園祭ですね。」

はじめて連れて行ってもらったとき、荒木さんにそう言ったことがあります。亜李子さんはたいてい、屋台のうちの一軒を引き受けておられました。

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「食道癌。」はじめて荒木さんからそのお話を聞いたのは6月ころでした。
亜李子さんが死んでしまう。まだ43才なのに。
食道癌の疑いがある。もし本当に癌であったら助からない。奇跡でも起きないかぎり。
奇跡なんて信じたことはないけど、どうして亜李子さんが死ななきゃならないのか。
彼女が西洋医学を信頼せず、自分で絶食療法で治そうとしていることを痛ましく聞きました。

その後、荒木さんの伝えるところにより、検査が進むにつれて状況がより絶望的になっていくのを知りました。

最後に亜李子さんにお会いしたのは7月中ころだったと思います。
ちょうど荒木さんのマンションの空いてる2階の部屋で療養しておられました。

「痩せて痩せて、まるで魔女みたいになってる。」

私がいきなり会って、彼女の変わりように驚かないようにと気を配って、荒木さんはわざと面白がった言い方をされました。
それほどまでの変わりようでした。
魔女というより、骸骨と言いたかったのではないでしょうか。

もともと痩せてる人だけど、目が落ち窪み、顔相がすっかり変わっておりました。
死相とはこういうのを言うのかな。そんなふうにも思いました。

元気づける言葉をどう出せばいいのか。ほとんど何を言っていいのかわからない。
幸い、亜李子さんの方が気丈でした。

「魔女やなんて、人聞きの悪い」亜李子さんが調子よくまくし立てて荒木さんをコキおろすのを、むしろ心強い思いで聞きました。

ノドの下あたりを指さしながら、

「このへんに凝り固まってるのがほぐれてくれれば、 あとは、治り出したら早いんやけどな。

 痩せた痩せた言うて、やたらに食べろと言われるのは、ごっつい気が疲れるねん。ほっといて欲しいわ。」

一緒に荒木さんを悪者にして、相槌を打ってるのがやっとでした。

固形物はノドを通らないけれど、流動食なら食べられる。
亜李子さんが私に西瓜をねだってくれたのは嬉しかったです。

「西瓜はすぐに買ってきます。なにしろ、私の店の隣りが果物屋ですから。
 早く良くなって、またカラオケ一緒に行きましょうよ。」

ようやくそれだけ言って帰ってきました。

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7時からはじまっていたお通夜に私が参列できたのは8時すぎでした。
大勢の弔問客が屋外にあふれ、突っ立ったまま、
延々と続くお坊さんのお説教を聴いておりました。
遠くて聞き取れなかったけれど、亜李子の字の意味と戒名について、
のようなお話だったと思います。

ほどなく説法が終わり、お焼香が始まりました。
豪勢なお通夜です。参列客は300〜400名程度。
劇団員・芸能各界つながりで、比較的若い女性が多い。
黒ずくめの装束でなく、ワリとラフなスタイルの人も多い。
雪駄はいた人もいたようです。

荒木さんの誘導で、前の方に座っていた親族の方たちが退席され、焼香が終わりに近づくと、屋外ではビールが用意されました。
和やかな歓談のうちに故人を悼む。

「最後まで絶対あきらめんと戦う。子供に教えてやるべきことはそれやな。」

FM伊丹の一木さんは、そんなふうに言ってました。
病院で、涙ぐんでいた看護婦さんにむかって

「まあまあ、看護婦さん。そんなに泣かんとー。」と言って皆が慰めたそうです。

淋しい死をたくさん見てきている看護婦さんにとって、亜李子さんと彼女の仲間達の明るさは感動的だったに違いありません。

ビールがはいって、やがて人声はだんだん大きくなっています。
近隣にはマンションがたくさんあって、遅くまで騒いで苦情でもあっては大変と、葬儀屋のおばさんが荒木さんに相談に来られてました。荒木さんは各方面の大勢の人をさばき、実にこまめによく動いておられました。

亜李子さんの浴衣を見よう。お見舞いにいただいたのに、着る機会がなかった。死に装束に使おう。通例の白装束などは無視して着せてしまったのだそうです。棺の蓋を全部あけて、顔だけでなく全身見せてもらって、あわてた葬儀屋の係員がたしなめに来たり。

少々はしゃぎすぎても、「かめへんやん。気にしやんとき。」
明るくて飾り気のない亜李子さんの声が皆の声にまじって、すぐ聞こえてきそうな気がしていました。

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2001年9月16日午後6時30分

看護のみんな(チーム亜李子)に見守られ 眠るように息をひきとりました。
13日深夜のゆみちゃんとの会話が意識ある亜李子の最期の言葉でした。

看護ノートより・・・・

「勝負しやなあかんねん」
「もうきょうは夜中やからあしたの昼間にしぃーや」
「えぇーー、夜中か、最悪やなあ」
「夜は寝たほうがいいよ。昼間みんなと話したりせなあかんから夜は寝よな、目つむって」
って云ったらすごい素直にすぐ目つむって寝てしまった。
なんか起きてても寝てるみたい。

食道癌と闘った亜李子は僕らの大事な友人です。